瀧山 信仰と伝承

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〜『山形県の山』より〜

瀧山(標高1,362m)

平安時代、慈覚大師が開山した山岳信仰の山。
「瀧の山」と呼ばれるほど瀧山四十八滝からの豊富な良水に恵まれている。



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霊山神社

瀧山開山の祖「慈覚大師」の石像が安置されている。



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前滝コースの「姥神さま」


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乳母神コースの「姥神さま」

瀧山の姥神さまは、ほとんどお地蔵さまのよう。当地では「姥」ではなく「乳母」の漢字が当てられ、より親しまれている。ちなみに昔はもう一体あったとのことだが、現在は紛失(代わりに「瀧山大権現の石碑」が置かれている)。



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瀧山の登山道は、西蔵王牧場がスタート地点となっている。



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三百坊の石鳥居



〜滝山地区町内会連合会『滝山地区 歴史の散歩道』より〜

三百坊

土坂観音堂より古道に入り、三百坊の鳥居の前に立つ。赤い鳥居は慶応二年(1866)に麓の信者たちによって建立された。石材は「赤石原」からのものである。

華表が鳥居の側にある。華表と並んで「瀧山塔」が立っている。鳥居建立に先立って、安政二年(1855)に建てられた。「これより堂庭まで杉並木を奉納する。切れば仏身の罰を受ける」と刻まれている。瀧山信仰の篤さが偲ばれる。今、その杉並木は切られ、点々と僅かに数えるのみである。

三百坊は、瀧山寺(霊山寺)を中核として三百の坊が建ち、瀧山修験の一大道場であったという。正嘉二年(1158)に閉山されるまで、瀧山仏教の聖地として栄えていたのである。



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瀧山の麓、土坂観音堂に祀られる「畜魂供養」。






〜清野春樹『瀧山と恥川の秘密』より〜

「里人が死ぬと、その屍は端山の麓に葬った。肉体を離れたその人の魂は、美しい端山の頂きに登ると考えた。端山に登った霊は、三十三年のあいだ端山の頂きに止まるという(千歳栄『山形の自然と文化』)」

その端山(はやま)は山形では千歳山であり、深山が瀧山である。


この瀧山は修験の山で、一時は出羽三山と対抗できるほどの勢力を持った寺があった。瀧山の山腹には瀧山寺(霊山寺)の跡が残る。霊山寺が記録に表れるのは『三大実録』に「貞観九年(867)出羽霊山寺、定額寺となる」という記事である。瀧山は国家から正式に認められ、国家から用料を支給される「定額寺」になったと考えられる。これについては天童の「水晶山」も候補とされ、まだどちらであるかは決着していない。


瀧山信仰とは何であろうか。ここには大きな謎がある。それは北条時頼の廻国伝説にからみ、瀧山寺(霊山寺)が閉鎖されたことが伝えられているが、その理由が判然としないからである。伝承としては、瀧山寺の修験僧が邪(よこしま)なことをしていたので、それを北条時頼が見聞きし、閉山させたということになっている。

その他にも出羽国では山形県酒田市の旧八幡町にある鷹尾山に3,000人もの大宿坊があったが、横暴な振舞いがあったとして閉山させられたという。神室連峰の翁山修験も、参詣者から金品を奪っていたといい、時頼によって閉山させられたという伝説がある。陸奥国では現在の岩手県一関市にあった室根山も壊滅させられた。

また、時頼の廻国にともない、松島寺と立石寺(山寺)は臨済宗に改宗。蚶満寺(象潟)は禅宗に、山王坊(津軽)は真言密教に改宗している。北条時頼の廻国伝説には史実か否かを巡っての論争があるが、時頼本人の下向かいなかは問わないまでも、時頼の何らかの意向が働いての結果であることは間違いないであろう。



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瀧山寺

〜現地・案内板より〜

瀧山寺

醫王瀧山寺と称し、仁寿元年(851)慈覚大師によって開創されたとされる天台宗の古刹である。瀧山頂上に薬師如来を祀り、多くの信仰をあつめたと伝えられ、平安時代から鎌倉時代初期まで西蔵王一帯に堂塔伽藍が立ち並び、繁栄を極めたと伝えられる。鳥居が丘(元木)の石鳥居もその時代に建てられたものといわれている。

しかしながら正嘉二年(1258)鎌倉幕府の執権、北条時頼に閉山を命ぜられ、以来衰退し今は地名と石造物を残すのみである。



〜『滝山地区 歴史の散歩道』滝山地区町内会連合会より〜

醫王山 瀧山寺

瀧山寺は、正嘉二年(1258)瀧山が閉山された時、寺の僧たちは中桜田信(新)心堂の桜神前に下ったといわれている。

閉山の理由は、瀧山の修験僧たちが、廻国中の北条時頼に無道のふるまいがあったためと古文書に記されているが、時頼の廻国伝説はあくまで伝説であって事実ではない。同時代に朝日山・御所山の修験も閉山されている。これから考えると、北条氏領の領土拡大政策があり、それに従わないほど大きな勢力になっていたための閉山ではなかったかと思われる。

閉山によって追放された僧たちは、瀧山寺としてこの地に落着いたと思われる。中桜田桜神前に「桜神」という神社がある。祭神は不明である。ここに瀧山寺があったといわれている。





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by zuss2 | 2014-09-16 11:26 | ちょろ吉 | Comments(0)
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