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『点描スキー100年温故知新』 …(引用はじめ)… 第7回冬季オリンピックの開催地はコルチナ・ダンペッツォ(イタリア)。会期は1956(昭和31)年1月26日~2月5日までの11日間。32カ国1,400人が参加。日本スキー界からはつぎのメンバーが派遣された。海外遠征の人員は外貨の関係から割当制だった。 野崎彊(朝日新聞社)監督 久慈庫男(北海道炭鉱汽船)コーチ 吉沢広司(同和鉱業)ジャンプ 佐藤耕一(クローバー・バター)ノルディック複合 猪谷千春(ダートマス大学)アルペン 杉山進(長野電鉄)アルペン 1月29日、大回転。 1位トニー・ザイラー(オーストリア)。猪谷11位、杉山47位。 1月31日。トファーナの連峰が真紅に燃え、コルチナに朝が訪れた。オリンピックのためにタンネの林を切り開き、新設されたスラローム・コースはまだ闇に沈んでいた。 1回目のインスペクション。冷たい霧が流れるなか、猪谷はたんねんにコースを調べながらスタートに登った。身にまとった紺のハーフコートは、4年前、初めてのオリンピックで着たものだった。 スタート直後は30度を優に超える急斜面。水が撒かれ、ガチガチに凍っていた。あまりに急で、回るというより落ちるしかないようなこの場所で、優勝候補の筆頭、アンダール・モルテラーが転倒。一か八か、失敗してもかまわないから一発勝負に賭けようと考えていた猪谷は、野崎に言った。 「うまい連中が転んでいます。技巧派よりもパワーで押すタイプに有利なセット。1回目は慎重に滑ります」 遠く離れた日本列島で、無数の人々がラジオに耳をそばだてるなか、スタートした猪谷は、意識的にペースを抑えて滑り、ゴール。1分30秒2。6位。1位はトニー・ザイラーの1分27秒3。 「猛然とスパートしていたら、あるいはベストタイムを出していたかもしれない。しかし大転倒の危険も高かった(野崎彊)」 昼食。猪谷は用意されたコールド・ビーフ、チキン、チーズ、パンには目もくれず、海苔で巻いたおにぎりだけをほおばった。 2回目のセットはジャングルのような94旗門。このときを最後に国際スキー連盟(FIS)は旗門数の上限を決定。コルチナの旗門数は記録として残ることになった。日本では太さがまちまちの竹竿が使われていたが、ヨーロッパに竹はなかった。同じ太さのプラスチック製のポールが、雪上に出る部分の長さを厳重に統一され、立ち並んでいた。コースを眺め、野崎は思った。 「なんとも美しく、堂々としている」 木々には霧氷がつき、濃い霧で30メートル先が見えなかった。右下がりの、そうとうに斜度のあるいやな斜滑降から始まるコースは固く凍っていた。野崎はヤスリと猪谷のコートをゴールに置き忘れ、猪谷がアメリカ選手からヤスリを借りて急場をしのいだ。 「スタートからスパートしている感じだった。出だしのスピードがいやに速かった」 第6旗門の横にいた野崎の予感は当たった。猪谷は、セッター、ロイスナーが仕掛けたわなにはまった。外側のポールを外スキーで引っかけ、ポールを股の間にはさむ形になった。 「だめだ、倒れる」 つぎの瞬間、猪谷は右スキーを開き、股を180度も開いて、この苦境からの脱出を試みた。右スキーを開いたまま、左スキーだけで滑り、転倒を免れた。野崎は思った。外側のポールのマークの部分、はたして右足と右スキーの前半が通過したか(当時は片足反則が認められていた)。もし右足と右スキーの前半がマークの内側を通過してなかったら5秒加算される。猪谷は完全なフォールを取り戻し、2、3秒後、野崎の視界から消えた。 「反則かな」 かたわらにいた杉山進が、野崎の問いかけに答えた。 「そうかもしれませんね」 「真実は真上から見ないとわからない。神のみぞ知るだな」 ぐんと加速した猪谷は雪のかたまりが張り付いた凸凹だらけのコースをアクロバットのように滑り下り、ゴール。4人をごぼう抜きにする1分48秒5。トニー・ザイラーが滑るまで最高タイムだった。 成績の公式発表は18時。宿舎に戻った野崎はどうにも落ちつかず、組織委員会のオフィスに走った。アメリカ、スウェーデンから猪谷の滑りに対して公式に抗議が出されていた。しばらく待っていると、会議室から1回目のセッターのオット・メルディが顔を出した。 「おめでとう。ペナルティはないよ」 1位トニー・ザイラー、3分14秒7(1回目1分27秒3、2回目1分47秒4)。 2位猪谷千春、3分18秒7(1回目1分30秒2、2回目1分48秒5)。 アジア・オセアニア地域がアルペン競技で獲得した初の銀メダルだった。 オリンピック開幕直前、猪谷を上まわる滑りを見せていた杉山は、突然、不調の底に落ち、2本目に転倒。33位。 表彰式は21時から行われた。日の丸を仰ぎながら退場するとき、猪谷が野崎に言った。 「日の丸はいいですね」 野崎は猪谷の顔を見つめ、大きなため息をついた。 「あの日の丸は、千春くんと両親のもの。日本スキー界はなにもしていない。跡継ぎが出そうもない日本アルペン界、今後どうするのだ?」 ザイラーは3種目目の滑降も制し、冬季オリンピック史上初の3冠達成。この種目、杉山は33位に入り、猪谷は途中棄権に終わった。 猪谷千春は言った。 「いかなるスポーツにおいても、日本人は体格、体力で他国に劣っている。それをカバーするためにはオリジナルの技術、人よりすぐれたものを何かもたないと勝てない。科学的なトレーニングや合理的な考え方はたいせつだが、最後の最後、あと100分の1秒はやく滑ろうと思ったら根性しかない。”エンジョイ”では勝てない」 …(中略)… 1956(昭和31)年2月1日、日本列島に朝日新聞の号外が舞い、見出しが躍った。 ”冬季五輪に初の日章旗” ”猪谷、回転で二位” ”優勝はザイラー(オーストリア)” 以下の記事がつづいた。 冬季オリンピック男子スキー回転競技は31日、38カ国から95人の選手参加の下に行われ、日本の猪谷選手はオーストリアの強豪トニー・ザイラーに次ぎよく二位に入賞した。スキーは初の入賞でスキー、スケート両競技を通じ日本選手が冬季オリンピック大会で三位以内に入賞、日の丸をかかがた初めてのことである。 戦後、リフトの発達と電光計測に後押しされて、猛烈なスピードで日本スキー界に浸透したアルペン競技は、猪谷の銀メダルを契機に、1966(昭和41)年から始まるワールドカップの時代に向かって足を踏み出した。 同時に戦後のスキーブームは一気に沸騰。リフトの新設、増設。設備の改善に拍車がかけられ、さらにスキー場の概念が”雪の降る温泉地”から”広く変化に富んだコースを提供しうる場所で、近代的なホテルのあるところ”へと移行を開始した。 …(引用おわり)… 出典: 『日本スキー100年誌』 #
by zuss2
| 2017-03-11 06:04
…(引用はじめ)… まずはホワイトボードに、レースの日に自分に関する「プラスなこと」と「マイナスなこと」のすべてを書き出します。たとえばプラスだと楽しい、挑戦、チームスピリット、速さ、目標達成など。マイナスだと緊張、恐怖、ストレス、不安、転倒、片反など、たくさん出てきます。そして、マイナスに出てきたことを一つひとつ取り上げ、どうしたらプラスにできるかを話し合います。 意外と多かったのが「怖さ(Fear)」。怖さと言っても負けることへの恐れ、コースの怖さ、転倒への恐怖、自分の今現在のランキングより落ちてしまうかもしれない恐怖など、いろいろな種類があります。まずは何が怖いのか、自分が何に対して何を心配しているのかを書き出します。そうすると、恐怖のほとんどは実在しないものということがわかります。恐怖とは「自分自身が勝手な思い込みで作り上げた想像」であることがほとんどなわけで、実際それが起こるかどうかすらわからないわけです。それに気がつけば、恐怖心を排除することは比較的楽になります。 次に多かったのが「緊張」。緊張することが悪いことだと思っているからマイナスになるのであって、逆に緊張するのは良いことだと思い込めば良いのです。緊張するのは自分がスキーに対して本気になっていることの現われであり、緊張するのは当たり前。普段の生活ではなかなか味わえない「ド緊張」をスキーレースでは味わえるわけですから、むしろその瞬間を楽しむようにすれば良いわけです。 … 英語で「Impossible(不可能)」という言葉は、ひとつ点を足してスペースを入れるだけで、「I'm possible(私はできる)」となります。前向きな姿勢というのは、どんな世界でも大事ですね。 …(引用おわり)… そういえば、こんな禅問答もあったな。 以下、別の本から引用。 … 神光が言った。 「私の心は不安であります。どうかこの心を安らかにしてください」 達磨は答えた。 「では、その心をここへ持ってくるがよい。おまえのために安んじてやろう」 神光はさらに問うた。 「心を探し求めましたが、どうしてもつかむことができませんでした」 達磨は答えた。 「それでよいのだ。おまえのために、もう安心させてしまったぞ」 … 「達磨(だるま)の安心(あんじん)」として知られる公案だ。私たちは心を持っていると思うから悩みもするが、いざ心をつかもうとすると実体がないからつかめない。禅では心は私たちがつくりあげているものだと考える。悩みや恐れは私たちの心にあるもので、対象や事実そのものにあるわけではない。それにしても「心を持ってこい」とは面白い表現だ。「形がないものに悩みがあるはずもない。それがわかれば安心したはずだ」と言われて悟った神光は、やがて達磨から「慧可(えか)」という名を与えられ、禅宗第二代の祖(二祖)となった。 … #
by zuss2
| 2017-03-07 19:49
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