〜東沢の歴史散歩「不動滝」より〜 (蔵王・宝沢登山口)四合目の不動滝(高さ15m)は、昔、源義家が阿部貞任との戦いにここまで進軍してきたとき、にわかに大暴風雨となり、義家は守り本尊の不動明王を取り出して祈願したところ、たちまち暴風雨は収まったので、ここに不動尊を祀ったといわれる。 伝承によれば、蔵王を開山したのは「役の小角(えんのおづぬ)」、もしくはその叔父の願行とされているが、登山道を開いたのは「覚山」という坊さんだという。 「当時、宝沢に井上太郎大夫という農夫あり、子なく天に祈る。その妻、一夜、一僧胎中に入るを夢み、男子を生む。朱鳥八年(692年)十月十八日のことなり。乙鶴と名づく。乙鶴長じて、才徳人に優れ、和銅五年(712年)、19才の春三月山伏となり、名を覚山と改め、諸国の名山霊地を巡り修業を重ね、吉野金峯山に至り蔵王権現を拝す。霊夢に、蔵王の霊山あるを知り、その山の中興を志し、帰国して登山の道路を開き、信者の利便を計る(三乗院)」 『覚山行者伝記』によれば、山形宝沢に生まれた覚山は、大和国(奈良県)にて修行中、蔵王権現の夢のお告げをうける。そして登った蔵王山、不動滝のところまで来たときに不動明王が現れる。覚山に告げていうには、「善キ哉、善キ哉、汝此山ヲ開カンガ為、勇猛精進シテ丹魂ヲ尽クス。故ニ遥カニ仏意ニ通スルナリ…」。 以後、覚山は宝沢に三乗院を建立し、蔵王大権現を祀ったとのこと(和銅五年,712年)。 Wikipedia ”蔵王修験の拠点となった下宝沢には、今でも個人宅(「三乗院」の末裔)に「木造蔵王権現立像」が現存している” 「当社本尊は、高さ364cmの巨大な蔵王権現にして、三眼、青黒色の忿恕身。右手は三鈷杵を振り上げ、左手は剣印を腰に安ず。左足を盤石上に踏まえ、右足を高くけり上げ、魔障降伏の相なるが、本地仏は釈迦如来なり(三乗院)」 〜黒木喜久治『馬見ヶ崎川の流れとともに —防原町の歴史』より〜 宝沢には蔵王信仰の先達として最盛期には十二の坊があったという。 蔵王信仰の最盛期といえば、安永年間(1772〜1781)以降ではなかろうか。山岳信仰の隆盛とともに蔵王山への登拝者も多く、徳川後期、明治、大正と栄え、昭和の初めまでは、山形市民の多くは宝沢口から登り、参拝後は精心落しを兼ねて蔵王温泉へ降りるのが例であった。しかし、第二次大戦後は交通機関の発達と、保養地としての蔵王温泉の整備(ロープウェー、リフトなど)が進み、宝沢口を利用する登山者は微々たるものとなってしまった。 宝沢十二坊のうち、夏の坊、聖坊、滝の坊、小塩坊などは早く消滅し、明治以降に残ったものは、吉蔵坊、三乗院、宝蔵坊、三明院の四坊のみである。 蔵王「宝沢口」登拝道順 一合目 行き別れ地蔵 二合目 垢離場 三合目 歌の沢 四合目 不動滝 五合目 大沼(ドッコ沼) 六合目 紅葉峠 七合目 ザンゲ坂 八合目 お花畠(蔵王地蔵尊周辺) 九合目 ワサ小屋 十合目 熊野岳
by zuss2
| 2014-09-04 15:59
| ちょろ吉
|
ファン申請 |
||